第90号(平成13年7月1日)

横浜開港と横浜への絹の道(その1)

シルクセンター国際貿易観光会館 専務理事 安藤雅之

  横浜の港が開港以来生糸貿易で大変栄えました。そのことを記念して昭和34年に横浜開港百年記念事業として、英一番館といわれましたイギリスのジャーディン・マセソン商会があったところに、神奈川県、横浜市、絹関係業界が協力して、絹貿易の振興、絹需要の促進をめざして、シルクセンター国際貿易観光会館をつくり、その中にシルク博物館を設置しました。ここで絹に関する知識の普及、絹の服飾美を鑑賞していただき、これらを通じて絹需要の促進をはかることを目的としています。

  横浜が開港以来、横浜の貿易輸出量の第一位を生糸が80余年間も占めていました。この開国以来 日本の経済を大きく支えて来た生糸貿易ですが、その生糸がどこからこの横浜へ運ばれて来たのか、そのルートを考えてみることにします。

横浜シルクセンター

1 横浜開港と生糸貿易の始まり 

 横浜が開港したのは、安政6年1859年です。開港したころの様子は、埋立地の急造りの家にお互いに何を買ってくれるのか分からないままに、ただ、いろいろな品物を並べているだけの状況だったようです。

 生糸貿易の始めについて、「蚕史」(大塚良太郎)という本の記述によれば、「6月28日(西暦7月27日)に英人イソリキが芝屋清五郎の店頭に来たり、甲州産島田造生糸六俵を1斤に付一分銀五個の値を以て売買す」というもので、その他の説も掲げていますが、つまり、開港したその月の終わりごろから、横浜の生糸貿易が始まったようです。

 これによって、横浜に店を出していた日本の商人は、どうも外国人は生糸に大変関心があるらしいことに気がつきまして、それから一斉に生糸の売り込みが始まります。ここから横浜と生糸 の結びつきが始まり、世界に名をはせた「横浜と生糸貿易」につながっていきます。

 生糸が日本の輸出品の主役に 

 横浜港からの輸出は、昭和までずっと生糸が第一位を占めてきましたが、それでは何故日本の生糸が世界の中で関心を持たれるようになったのかというと、一つには、日本にとっては開国という時期が、世界的に生糸の品不足という状況にあって日本にとっては大変運がよかったという「時の運」があった。それから、当時の最大の輸出国であった中国の隣に日本が位置しているという「地の運」があったといえます。

 外国側の事情

 当時の世界の絹製品の最大の消費地は、ヨーロッパでした。それが、1845年ころからヨーロッパでは微粒子病という蚕の病気が流行し始めまして、ちょうど日本の開国のころは、ヨーロッパでの生産量が大変落ち込んでいた時期でした。ところが、最大の輸出国である中国では1840年ごろからアヘン戦争が始まり、それから太平天国の乱が続くということで、中国からなかなか買い付けられないという世界的に品不足の状況にありました。

 そこで中国の隣にある開国したばかりの日本に行ってみたら、大変質のよい生糸が手に入るということで、ヨーロッパ側も日本に目をつけて買い付けようということになってきます。

御殿橋の「絹の道」標識版

 日本側の状況

 そのころの日本側の状況をみますと、良質な生糸を生産する素地が出来ていたことと横浜へむけて輸送する仕組みが出来ていたなど社会的な条件整備ができていたといえます。

 まず生産技術の面で、座繰り器が日本中に普及し効率的に糸をとる技術面での発達が進んでいて外国からの需要を受けとめるだけの技術的な対応能力ができたといえます。 糸の品質の面では、これよりもう百年程前になりますが、幕府が中国からの生糸の輸入を制限したことから、高級織物もできるほどに国内産の生糸の品質が向上していたといえます。

 さらに生産地の面で、東北地方南部にまで生産地が広がっていたことです。開国をして外国からの需要があったときに、開港場横浜にとってヒンターランドができていたことです。

 流通の面で、関東周辺で物の流通体制がかなり出来ていたといえます。江戸という町は、当時の世界でも有数の人口集約地でして、その大消費地に向けていろいろな生活物資を運び込むためのルートが出来ていました。それが五街道を中心とする街道の整備であり、河川利用による内水面輸送路の整備であり、海上交通路の開発でした。それで横浜が開港した時に、生糸の輸送がサッと横浜に向けて機能できたということがいえます。

 もう一つの要因ですが、開国をして日本は近代化するために大変お金が必要だったわけで、その財源が地租改正による土地税と外貨獲得でした。この外貨獲得の主役が生糸貿易でありまして、国家の大政策としてもこの生糸貿易を押し進める必要があったということでした。

 このような色々な事情が重なりあって、横浜からの生糸貿易が大変盛んに行われたといえます。

2 横浜への絹の道

 この生糸貿易を支えた生糸が、その生産地からどういうルートで横浜へ運ばれてきたか、この集まってくる道筋を「横浜への絹の道」ということにしました。

 この道筋を絹の道ということについて、生糸を横浜へ運んだ道筋の一つに八王子から南の鑓水を抜けて原町田を通り、横浜へ至る道があります。

その道筋の鑓水峠に「絹の道」と書かれた石碑が立っています。

八王子市は昭和47年に、この石碑から鑓水の集落の御殿橋まで約1500メートル程を八王子市指定文化財「絹の道」という史跡に指定しました。八王子市はこの史跡の指定文のなかに「絹の道」というのは、八王子市の橋本義夫氏によって昭和26年ころに命名されたと書いており、これが日本における絹の道という語の始まりになったようです。

 その横浜への絹の道は、開港の安政6年(1859)から日露戦争も終わったあとの明治40年(1907)ごろまでの50年間が陸路、水路を使った絹の道が最も栄えた時期です。

 開港のころの輸送方法は、馬の背と大八車で運ぶしか方法がなかった。それが馬車輸送となり、鉄道の開通により、鉄道輸送に変わっていくという歴史を辿るわけで、明治41年に今のJR横浜線が開通して横浜と八王子とが結ばれます。これを区切りに生糸の生産地は全て鉄道がいきわたり、そして長距離輸送は鉄道輸送に切り替わっていき、馬の背と大八車というような輸送手段は途絶えることになり、絹の道もここで消滅することになります。

3 生糸の生産地 

 江戸時代の終わりころの主な養蚕地域というのは、

    陸奥、出羽南部
    上野、武蔵、信濃北部
    甲斐、飛騨、信濃南部

という三つの地域が主たる産地であったといわれています。

 幕末期の文久のころの出荷、売込量でいいますと、陸奥、出羽南部で全体の47%を占めていま した。明治の初年ころは、上野を中心に武蔵、信濃北部の地域が48%を占めるようになります。さらに、明治10年ころになりますと甲斐から飛騨、信濃南部の地域が47%を占めています。従って、横浜への絹の道の道筋を考えるときには、この三つの地域からどのようなルートで運ばれて来たかを考える必要があります。

4 横浜への道筋   

 江戸幕府は、各藩の統制と経済政策から江戸を中心とする五街道制度をつくります。日光街道と宇都宮から分かれる奥州街道、西の方へ向かう中山道、甲州街道、東海道の五つです。江戸時代を通じて、この五つの街道を中心にして人の移動と物資の輸送が行われていました。

 この生糸の生産地と五街道を重ねてみますと、横浜から輸出された生糸の輸送路として実によく重なり合うと思います。生糸の輸送路として、五街道を本流とするとその支流に当たる脇街道と連携して実にうまく機能したといえます。

 このように江戸、横浜へ向かういろいろな道がありますので、生糸だけの特別な道、これが絹の道というように固定したものではなく、大消費地であった江戸へ向かった様々な物資の輸送ルートが延長され、それにのって横浜へ運ばれて釆たと考えています。また、この道筋は陸路だけでなく、江戸時代も終わりのころは、利根川水運が大変発達していますので、北の方からの輸送については内水面利用との併用で江戸、横浜に運ばれて来たと考えています。

 陸奥、出羽南部;福島、山形、栃木=地方からのルート  開港のころの輸出糸は福島などの北の地域からの生糸が主体でした。その輸送路の主体は奥州街道で周辺の脇街道をつたって集まり、奥州街道を南下して江戸へ送られて来ました。

 そして宇都宮で日光街道と合流しまして、大宮を経て江戸の板橋に入ります。それから日本橋の問屋筋を経由して、東海道を通って神奈川、横浜へ入ってきました。これが陸路です。

 関東平野を大きく流れる利根川の本流を中心に烏川、鬼怒川、渡良瀬川などの支流とともに、大規模な河川運輸機構が江戸時代の中期以降、元禄の頃に一応完成したといわれています。

 奥州街道は、下野(栃木県)の阿久津のあたりで鬼怒川にぶつかります。そこで阿久津河岸や板戸河岸(下野)で舟に積み替え、久保田河岸、山王河岸、中村河岸(いずれも下総)まで運びまして、ここから陸路を馬で運んで利根川本流の境河岸(下総)に送ります。

 この境河岸から再び舟に積みまして対岸の関宿から江戸川を下り、一旦江戸湾に出てから日本橋界隈の問屋に入るというコース。これが江戸時代末の奥州地方から江戸へ物資を運ぶ大輸送路であり、米をはじめ生糸など諸物資がこのルートを使って運ばれました。これが船運です。

 上野、武蔵、信濃北部=群馬、埼玉、長野北部=地方からのルート

 上州や信濃北部地域から横浜へ輸送するには、高崎の少し南に利根川の支流の烏川に面して倉賀野というところがあります。中山道と利根川水系とがぶつかる場所です。

 中山道を運んできた荷物や上州地方の生糸も下仁田街道や十石街道などを使って倉賀野河岸ともう少し下流の平塚河岸から舟に積み替えて下っていく河岸で、大変栄えたところです。

 倉賀野河岸や平塚河岸を出た舟は、翌日、野田あたりで一泊して、その翌日の午後には日本橋に着いたといわれます。この舟運を使うことで、早く大量に運ぶことのできるルートでした。

 そのほかにもいろいろな街道がありますように、両岸の街道を使って陸路で江戸に運んだ街道も十分機能して運ばれてきました。このことは明治5年に陸運会社が認められるようになると、「高崎−本庄−熊谷−桶川−蕨−東京」、それから横浜という馬車輸送が行われるルートにもなってくることからも察することができます。

倉賀野河岸跡

 また、江戸から横浜への輸送については、陸路は東海道を利用するほか、江戸湾の船舶を使って神奈川まで運び、神奈川から横浜まで陸送又は船運が行われていました。このことは元治2年にはこの船運ルートが整備され、4年には江戸−横浜間に蒸気船連行が始まったことからもうかがわれます。

以下次号へ続く


イベント情報

夏休み特集

今回のイベント情報は、お子さまとご一緒に楽しめるシルクの体験や
見学ができる博物館のお知らせをいたします。

夏休みはシルク博物館(横浜)で体験!

開催期間

7月20日(金)〜8月24日(金)

体験学習

毎週水・木・金曜日実施

糸繰り・まゆ人形作り・はた織り・まゆからの「つむぎ糸」つくり

講演会映画会

毎週土曜日、14:00〜16:00

かいこの飼い方・糸の繰り方・簡単な蝶や蛾の標本の作り方・観察用「からくり本」の作り方・映画会「かいこ」

特別展示

熊田千佳慕の昆虫絵・珍しいかいこの生態観察・蝶や蛾の標本・簡易自動繰機の運転

会場

シルク博物館
横浜市中区山下町1 シルクセンター2階 TEL045-641-0841

開館時間

午前9時〜午後4時30分
(毎週月曜日は休館)
体験学習時間/午前10時〜11時30分、
午後1時〜3時まで

入館料

小・中学生100円、高・大学生200円、
一般500円、シニア(65歳以上)300円

 

群馬県立日本絹の里

カイコの飼育体験教室

〜カイコのくらしとふしぎ展〜

会期

平成13年7月20日(金)〜8月20日(月)
午前9時30分〜午後5時
(入館は午後4時30分)
※火曜休館日

夏休み子供教室

対象:中学生以下(小学3年生以下の参加者は、保護者の方と一緒にご参加下さい。)

■組み紐キーホルダー作り教室■
厚紙のカードで組みひもを作り、キーホルダーにします。

日時

7月29日(日)
8月5日(日)
5月19日(日)
午前10時〜12時
午後1時30分〜3時30分

場所

日本絹の里 本館2階

定員

15名

参加費

400円

■折り染め教室■
ハンカチを折りたたんで模様染めをします。

日時

8月8日(水)
午前10時〜12時、
午後1時30分〜3時30分

場所

日本絹の里 本館1階染色体験室  

定員

10名 

参加費

400円

■糸巻きランプ作り教室■
小粋に生糸を巻いたランプを作ります。

日時

8月4日(土)8月18日(土)
午前10時〜12時、
午後1時30分〜3時30分

場所

日本絹の里 本館1階染色体験室 

定員

12名

参加費

900円

■シルクシート教室■
まゆ羽毛からシート(ハガキやうちわ)を作ります。

日時

8月9日(木)8月18日(木)
午前10時〜12時、
午後1時30分〜3時30分

場所

日本絹の里 本館1階染色体験室

定員

10名

参加費

200円

■申込先(電話でお申し込み下さい。)■
TEL 027-360-6300 群馬県立日本絹の里

■住  所■
〒370-3511 群馬県群馬町大字金古888-1

編集協力:農林水産省畑作振興課、農畜産業振興事業団