第91号(平成13年8月1日)

絹のロングドレス

日本絵染協会絵染め主宰 菊地エミ

 黒い学生服姿の船木一夫が歌う「ああ高校三年生..」には、甘く切ない青春の響きがあった。

 時代が変わり国が変わり風習がちがっても、多感なこの年頃の思いは今も昔もあまり大差がなしいようだ。

 アメリカの高校三年生は毎年4月ごろになると、それぞれ進路も決まり、6月の卒業が近づくにつれ、そわそわと関心事は「プロム」に集まる。

 この国で「プロム」といえばフォーマルなダンスパーティのことで、特に「卒業プロム」なら、お父さん、おじいさんの時代から続いている重要な学内イベントでもある。 学校の体育館をパーティ会場に使う場合が多い。レンタルのミラーボールを設置したり、学生アルバイトの生バンドも雇ったりで、結構豪華なパーティーとなる。

 とはいえ、背筋をピンと延ばしてワルッを踊る優雅な舞踏会などではなく、ロック音楽が流れるディスコを想像してしいただければよい。高校生あたりでは、ほとんどか社交ダンスを習っておらず、せいぜいリズムに合わせて体を揺すっているだけだ。

 当日会場準備は昼過ぎから始まり、真夜中が過ぎてからの後片付けまで、代々ノウハウを受け継いだ父兄ボランティアが裏方を協力する。

 それは同時に監視のカモフラージュでもある。アルコール類が特に持ち込まれていないか、ドラッグの気配がないかなど、夜中過ぎにパーティが無事に終了するまで、諸事万端を鋭く見守る黒子でもある。

 アメリカでは高校を卒業するとはとんどが親元を離れるので、子供達が大人の世界踏み出す前に、正装もさせて一応の社交ルールを経験する機会を作ってやろうという親心だろう。

 子供達もそれぞれに忙しい。

 まずお相手さがし。これがかなりのプレッシャーになるのは言うまでもない。

 ウーマンリブの盛んなアメリカでも、いまだに男子が女子をさそうパターンが主流だ。

 早くから決まる仲よしカップルあり、ギリギリまで恥ずかしくて、声を掛けられない弱気の男の子あり、回りでお膳立てしてやる友人たちあり。

 かといえば、「親がかりのそんなダンスパーティなんて、意地でも行かない」スネ派、思う相手と行けないガッカリ派、当日キャンセル大あわて派。

 青春は色々あって、悲喜こもごもの裏話は年々つきない。

 パーティーに参加するためには、費用もかさむので、各校でカンパ制もある。

 さて、お相手が決まっても、男子は、

1 レンタルのタキシード一式の採寸と予約

2 パーティーが始まる前にレストランで夕食をするのでその選定と予約(最近は割りカンもあり)

3 リムジンサービスの予約(これも割りカンあり)

4 自分とパートナーがつける花を選定(色、花種、値段がいろいろある)して予約注文

と、ものぐさ男なら逃げ出したくなるような細々とした準備をこなさねばならない。

 当人達には未経験のことばかりなので、素直に親のアドバイスに耳を傾けるという、まれな機会でもある。昔の経験談なども含めて、親子の対話ができるという意味でも大切なイベントなのだ。

 女子はなんといってもドレス選びが一番の難関で、親子ともどもテンションが高くなる。

 「そんなに胸が開いたのオ・・・だめ」

 「でも、みんな着てる」

 「それ予算オーバーよ、だめ」

 「・・・・・」

 涙あり嘆息あり口論ありの大騒動になろうことは、お嬢さんをお持のかたなら、およその見当がつくというものだ。

 アメリカのデパートにはそうしたパーティーのために、ロングドレスの広いコーナーがある。2から16まで、さらにクイーンと小柄向きの特別サイズがそろう。

コーナーがある。

 色とりどりの、フランス人形のようにスカートの広がったもの、スリムなもの、大きく胸の開いたもの、肩や背中が丸あきのもの、太もも深くスリットの入ったもの..がズラリと並ぶ。

 肌の露出度とフォーマル度は比例しているようで、確かに瑞々しい肌にはご威厳があるというか、人を圧倒するパワーがある。

 殆ど裸に近いようなドレスで、ビシッときまったタキシード姿の横に並んでもでも釣り合しがとれている。

 とはいうものの体型に自信がなければ臆する装いでもある。

 余談ながら、日本人なら露出するものが貧相でも、振り袖をぞろりと着れば絶対に勝てるという切り札がある。ただし汗ダクを覚悟しなければならない。

 なにしろパーティー用といっても高校生も着るドレスであるから、普通のデパートでは1万以内から5万円ぐらいの価格帯のものを置いている。

 素材はほとんどが合繊だが、真似ているのはもちろん絹の輝き、肌触り。

 高級ブティックに並ぶブランドのロングドレスなら値段も一桁多くなる。当然、布地は絹が多い。

 鹿鳴館のような、シャンデリアの下に美しく正装した男女の居並ぶ華麗なる上流社会、あるいは美形スターがにっこり微笑むハリウッド社交界のきらびやかなイメージが、ここアメリカの庶民の中にもあるようだ。

 東洋で生まれた、あやしく輝く絹の光沢は、甘く切ない永遠のあこがれの高級品として今も西洋で息づいている。

著者プロヒール  菊地エミ/ワシントンDC在住  染色デザイナー、日本絵染協会絵染め主宰、72年神戸女学院卒業、 74年米ロードアイランド造形造形美術大学大学院にて美術教育学修士課程修了、テキスタイルデザイン専攻  モントリオール、ニューヨークにてテキスタイルデザイナーとして活躍の後、「総染め」の登録商標を取り、その普及に努める。著書に「やさしい絵染め」(1978、ぺんてる)、「住めば都ワシントン」(1992、ジェトロ出版)「Newやさしい縦染め」

横浜開港と横浜への絹の道(その2)

シルクセンター国際貿易観光会館 専務理事 安藤雅之

 

4 横浜への道筋

 甲斐、飛騨、信濃南部=山梨、岐阜、長野南部=地方からのルート

 第3の武蔵から甲斐、飛騨、信濃南部にかけてですが、慶応のころの多摩地方には、2千人もの生糸商人がいたといわれます。この人たちは上州から奥州までも商売圏にしておりまして、そこで買い集めた糸を「登せ糸」として京都へ運んでいました。

 これが開港になりますと一斉に横浜へ運んでくるということで、関東南部の埼玉や山梨、長野南部の生糸はこういう人々の活動で横浜へ運ばれてきたわけです。

 その輸送路は、中山道よりも南の地域については、周辺の諸街道を使って、甲州街道又は直接八王子に出てきました。

 諏訪地方については、周辺の脇往還を使って中山道、または諏訪へ出てきます。そこから中山道を辿るか、又は甲州街道を通って江戸へ向かいます。どちらを通っても、中山道では和田峠、碓氷峠があり、甲州街道には笹子峠、小仏峠があり、いずれもこの辺りが難所でした。このほかに信濃地方からは、岡谷から甲府、塩山、大菩薩峠を越えて八王子に出る道がありましたが、いずれも運搬に大変苦労した道でした。

 明治19年に金沢の河合辰太郎という人が八王子を産業視察に来たときの記録に、信州の生糸は、北の方は中山道を通り、南の方は甲州街道を通る。場合によっては、四日市に出て船で運ぶこともあったようです。甲州地方は、東京又は横浜へ運ぶのは甲州街道を用いるが馬の背を藉りて運ぶということでありますので、運ぶ手段としては馬の背が主体でした。「駿州に行くには富士川を下る船路を最も便利とする。」とありますので、富士川を利用するには、甲府から鰍沢というところに出て、舟に積んで岩淵におろして清水湊に運んで船で横浜へ運ぶということもあったようです。

 甲州街道を運ばれてきた生糸は、明治になってからの記録では、藤野町の吉野から横浜に至る道、これは官道であると書かれた記録がありますのでこの道がそのころの常用路であったようです。それと浜街道といわれる八王子から鑓水峠−後に御殿峠に移る−をこえて原町田を経て横浜に至る道や甲州街道をそのまま進んで内藤新宿へ出るという本来の道筋も使われていました。

 

5 鉄道の時代

  明治5年には、新橋から横浜一今の桜木町一に鉄道が開通し、明治6年には、新橋と横浜の間で鉄道の貨物輸送が始まります。これに伴って生糸の輸送手段も鉄道へと移ってきます。

 その鉄道の開通状況を見てみますと

 明治16年に上野一熊谷一本庄一新町(今の高崎線)まで開通します。

 明治17年には群馬県地方の大集散地である前橋まで鉄道が開通することで、両毛地域の生糸の輸送はこのころから鉄道に移っていき、明治18年には、横川まで開通することで、上毛地域の蚕業地が横浜へつながります。

 明治20年には、宇都宮を通って郡山、塩釜まで開通します。

これで東北地方の蚕業地が横浜 につながります。

 明治21年には、軽井沢一上田一長野一関山まで開通し、中山道の大半は鉄道輸送が可能になります。

 甲州街道沿いは、明治22年に新宿一立川一八王子が開通しますが、明治36年の笹子トンネルの開通まで遅れて、大月一甲府一韮崎まで開通することで、甲州街道沿いが鉄道輸送になります。

 明治41年に八王子一横浜間に横浜線が開通し、明治44年に中央線が岡谷から名古屋まで開通するということで、明治40年代の初めには、主な生糸の生産地は全て鉄道でつながることになります。これまで人の力、馬の背で運んでいた生糸の運送は、順次鉄道に移り代わられ、いわゆる絹の道はすっかり衰退をしてしまい、消滅してしまうことになり、絹の道の歴史を閉じることになります。

 

6 絹の道が運んだもの

 これまで述べた物資輸送路としての絹の道は単に生糸を運んだだけではありません。これまで自分の村から出たこともない人たちが、生糸とともに横浜に出て来てそこで外国の文化に触れ、外国を経験することになるわけです。

 横浜事始めを見ますと、万延元年に和洋折衷の横浜ホテル開業、文久2年にレストラン開店、写真館開業、横浜天主堂完成、慶応元年にクリーニング開業、アイスクリーム発売、慶応8年に近代道路の馬車道、明治2年に理容師誕生、電信サービス開始などがあげられています。

 こうした見るもの、着るもの、食べるもの、全てが全く異なるものに触れ、体験します。そして人の考え方一宗教、教育といったものにも触れ、耳にして、自分の村へ帰るわけです。来たときの絹の道を反対の方向へ、自分の経験をしたものを伝えながら帰っていきます。こうしたことで絹の道は、また文明を伝える道でもあり、この道筋から文明開化が浸透していく道でもありました。

 そのような意味で、絹の道は単に物資輸送の道というだけでなく、文明開化を推し進める文明の道とも言えようかと思います。この絹の道は日本の近代化に役立った道と思っております。

 この横浜港の生糸貿易を支えたのは、日本の各地で蚕を飼った養蚕農家であり、その生糸を苦労して運んだ人たち、外国に売り込んだ商人たちであり、そうした多くの人達の努力のおかげで、日本の近代化が進む一助になったのではないか。絹の道は日本の近代化の手助けをする役割も果たしてきた道と言えましょう。

 そして今、絹に関係する私たちは、この道を再認識して、大切にしていくことが役割であろうと考えております。

著者講演会の予告

東海道宿駅制度400年記念講演会

「横浜への絹の道」

月日:平成13年11月23日(祝)13時30分 

場所:シルク博物館ホール

 

奄美大島紬協同組合100周年記念
銀座好みの大島紬展

とき:9月5日(水)〜8日(土)
10時〜18時

ところ:ジャパンシルクセンター

主催:奄美大島紬協同組合、銀座もとじ

後援:(社)日本絹業協会

2001年、今年は奄美大島細協同組合が創立100周年を迎えます。
それを記念して南国・奄美大島の紬の魅力を丸ごと東京に持ってきた展示会を行ないます。

桜岡民枝
シルクオリジナルニット作品展

とき:9月10日(月)〜14(金)
10:00〜18:00

ところ:千代田区丸の内仲通り

ジャパンシルクセンター

千代田有楽町1‐9‐4蚕糸会館

シルクなどを手染めし、手紬してオリジナルなニットヤーンを作り、その糸で作品づくりをしています。
今回の出品は、コート、セーター、ジャッケットスーツ、ショールなどです。

編集協力:農林水産省畑作振興課、農畜産業振興事業団